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JAみねのぶの歴史
当JAは大正3年に峰延産業組合として設立され、戦時中の混乱から国の命令であった農業会への改組を免れ、3市に跨る組合員で構成されています。農協法の公布を受けて昭和23年4月に峰延農業協同組合となりましたが、産業組合から通算しますと100年以上の歴史あるJAです。
大正 3年 | 無限責任光珠内峰延購買販売組合設立 |
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大正 6年 | 名称を無限責任峰延信用購買販売組合と改め信用事業開始 |
昭和15年 | 峰延報徳会発足し、毎月一日常会を開催する |
昭和23年 | 峰延農民組合青年部を結成 峰延農業協同組合に名称変更 |
昭和25年 | 峰延農協青年部へ改称 |
昭和26年 | 峰延農協婦人部結成 |
昭和29年 | 優良金融機関として大蔵大臣と日銀総裁から表彰を受ける 全国農協大会で優良農協として表彰される タイムス主催米生産コンクールで全国2位入賞 |
平成 3年 | 全国農協中央会から優良農協として特別表彰を受ける |
平成 4年 | 農協マークがJAに変更になり、愛称「JAみねのぶ」とする |
平成10年 | 玄米ばら集出荷調製施設「いなほの里」建設、9月操業 |
平成13年 | 小麦集出荷調製施設建設、7月操業 |
平成16年 | 多目的倉庫 建設 |
平成19年 | 小林篤一翁顕彰記念公園 建設 |
平成22年 | 精米施設 建設 |
創立10周年のとき全組合員
大正13年4月20日峰延小学校
昭和14年12月落成
峰延農業協同組合事務所
現在の組合事務所
玄米ばら集出荷調製施設
麦集出荷調製施設
JAみねのぶの生みの親 小林 篤一氏
『JAみねのぶ』で忘れてならないのが『小林篤一』翁で当JAの歴史は『小林篤一』翁の歴史でもあり、翁は連合会組織の設立に参画しホクレン誕生の生みの親といわれています。また、JA経営の根幹に『二宮尊徳』の思想・哲学である道徳経済一元の『報徳』を設立当初から取り入れているJAでもあります。
小林 篤一 (1890〜1972)
- 北海道農業倉庫連合会理事
- 産業組合中央会代議員
- 全国農村産業組合長会理事
- 北連会長第九代理事
- 大日本米穀会顧問
- 全国農業会理事
- 日本農産物(株)
- 北海道共同紡績(株)社長
- 北海道報徳社設立社長
- 全国運輸連理事
- 北海道共済連・全販連・北連中央会会長
- 参議院議員
など、報徳精神を持って多数の業績を残し、現在の農業基盤を支える。
小林篤一翁の略歴・功績
小林篤一翁顕彰公園
小林篤一翁は、明治23年11月5日兵庫県城崎郡三方村に生まれ、明治30年に一家で北海道に移住し、明治43年に岩見沢市峰延原野に入地しました。開拓間もない北海道で、幼少から勉学の傍ら開墾・農耕に従事し、50有余年にわたり農民の経済的社会的地位の向上を図るため、協同組合の育成に尽瘁し、北海道農業の振興に心血を注ぎました。
大正2年の大凶作を期に農村の経済的窮乏は産業組合によって救うべきであることを主唱し、大正3年の25歳のときに峰延産業組合を設立、大正4年に峰延信用購買販売利用組合を設立し組合長に就任、これが北海道における農業組合の礎石となりました。さらに、全道的な組合連合体の必要性を痛感し、大正8年の北海道信用購買販売組合連合会(北聯)の設立に尽力し理事に就任しました。
昭和28年、北海道販売農業協同組合連合会の経営危機に際し、農民の衆望を担って会長に就任し経営改善に努め、昭和29年に多年の懸案となっていた北販連と北購連の合併を実現させ、北海道経済農業協同組合連合会の初代会長に就き、今日のホクレンの基礎を確立しました。また、てん菜栽培が北海道農業経営に不可欠であることから農業組織によるてん菜糖工場の建設を提唱し、昭和32年に設立させました。
昭和31年に北海道開発審議会特別委員に就任、さらに昭和37年に参議院議員に当選し、昭和42年には北海道開発政務次官として、本道開発の推進に多大な業績を残し、また、道共同募金会会長として社会福祉の増進に寄与するなど、その功績は偉大でありました。
また、篤一翁は農村の経済と道義の一元的向上を目指す二宮尊徳が説く報徳の理念に共鳴し、北海道報徳社の創立に尽力し豊かな村づくり町づくり運動の推進に努めました。